ひとりのじかん

考えることをやめないために

赤いリンゴなんてない。

今感じている楽しさがありますよね。
今感じている悲しさがありますよね。 

それはほとんどの場合、錯覚です。

だって、全く同じことが起こっても、楽しいと感じる人と悲しい人がいるのです。


では、これはどうでしょう。


リンゴは赤い。本当に赤い色なのか。


色の勉強をしたことがある人は知っているかもしれませんが、赤いのはリンゴではありません。
リンゴは赤い色の波長を反射するだけで、正確には赤色ではないのです。

なんのこっちゃ思いますか。
でも、光がないとリンゴは赤くならないでしょ。暗闇でリンゴは赤色ではありません。
それは、赤色を持っているのは、りんごではなく、光ということなのです。


わかりやすい例をあげると、昼間の空は青くて夕方にはオレンジ、夜には黒のような紺になりますよね。
空の成分は同じはずなのに、太陽の位置で色は変わります。
何かに色がついてるのではなく、光の波長を感じて、自分の脳が認識をしてるだけなのです。



私たちの脳は常に錯覚しています。
錯覚が当たり前なはずなのに、自分が見えるもの感じるものを、さも誰もが同じように見えて感じているように思ってしまう。

その代表格は正しさです。
中島みゆきさんが、歌ってましたね。
「正しさと正しさが相容れないのはいったい何故なんだ。」って。
私には正しくて、あなたには正しくない。
正しいだなんてことは所詮そんなものです。
良いとか悪いとか、カワイイとかブサイクとか、面白いとかつまらない、なんかもそうです。錯覚です。
本当は自分が好きか嫌いしかないんです。
自分にとって(都合が)良いか悪いしかないんです。

一緒にいる人が変われば、国が変われば、時代が変われば答えは変わる。
地球が丸いだなんて誰も考えない時代に丸いといった人は変人だったし、生贄で天災はふせげると本気で信じていた時代もあった。

もう、なにがなんだかわからないのです
答えなんてないのだと思います。

でもだから、
優しくなれる。
他人に寄り添う。
理解しようとする。
ケンカする。
仲直りする。

人には、自分以外のものに共感できるという脳細胞があって、その細胞と言葉があります。

答えはなくても、自分以外の人と一緒に答えのようなものに近づいていくことはできると思うのです。


どうせ全てが錯覚なら、人が笑えて、自分が笑えるような錯覚をしたい。

自分の捉え方次第で、世界は変わる。

「幸せは自分の心がきめる」って、そういうことなのではないでしょうか。

ならを。

現実と経験は繋がっていく。

ときどき、夕飯が二回ある日があった。
 
一回目は母のごはん。
お腹いっぱいまで食べて、「おいしかった」と伝えれば微笑んでくれて、それが嬉しかった。
 
二回目は父のごはん。
お腹は空いていなかったが、美味しいごはんだったし、「おいしかった」と伝えれば微笑んでくれて、それが嬉しかった。


父に夕飯を食べたことを伝えればいいだけのことだが、その嬉しさと、どちらか一方だけを選ぶことの後ろめたさで、当時の私にはそれはできなかった。
 
 
こんな不思議な家庭になった理由は、幼き頃の私がケンカをするたびに腹痛をおこし、幼稚園児にして胃腸炎になったため。
家からケンカはなくなり、その代わり会話をすることもなくなった。
 
 
それから何か問題が起きれば、父と母のそれぞれの話を聞いて子供の私が判決をするというのが我が家の暗黙のルールになる。
 
 
例えば、母が仕事で正社員に昇格するとき。
父は幼い子供達を残して仕事をすることを反対し、母は幼い子供達を育てるために仕事が必要だという言い分。
私が寂しさを心の奥に片付けて、「俺も頑張るから、お母さんもがんばってね」と言うと、母は涙を流した。それは今でも鮮明に覚えている。
 
 
そんなことを続けていれば、当然、変に大人びた子どもらしくない子供になる。
 
親戚のおばちゃんには苦労してかわいそうだなんて同情されたが、かわいそうと言われるのは嫌いだった。
小学生の高学年の頃には、こんな家族だからこそ身についている他の人にはないものが自分の中に育っていることを知っていたし、それが恵まれてるんじゃないかとも思っていた。(今考えればそう思うしかなかったのかもしれない。)
 
 



どうして自分が俯瞰的な視点で物事をとらえる人間になったのかを考えたら、こんなことを思い出す。
 

人の意見をよく聞いて、真ん中を探す。
本質はなんなのかを考える。
それが家族からもらった、大事な大事な私の価値観。
 
 
 
 
ちなみに、母が正社員になる判断から20年ほどたった今では、父は心臓を患い、母は大企業の管理職にまでのし上がって、家族を守っている。
 
おそらく、私が小学生のときにだしたあの判断を、間違いにしないために必死になってくれたんだろう。ありがとう。
 
 


忘れてしまっていても、現実と経験は繋がっていく。